愛しきソナ

梁 英姫(ヤン ヨンヒ)Yang Yonghi

大阪市生まれ。在日コリアン2世。1987年、東京の朝鮮大学校を卒業後、教師、劇団女優を経てラジオパーソナリティーとして活躍。1995年からドキュメンタリーを主体とした映像作家として数々の作品を発表する。「What Is ちまちょごり?」「揺れる心」「キャメラを持ったコモ」などの作品は、NHKなどのテレビ番組として放映された。また「ニュースステーション」(テレビ朝日)でニュース取材・出演するなど、テレビの報道番組でも活躍。タイ、バングラディシュ、中国などアジアを中心とした様々な国に長期滞在し、当事者の視点で取材を続ける。1997年より約6年間ニューヨークに滞在し、様々なエスニックコミュニティーを取材しながら、ニュースクール大学大学院メディアスタディーズ修士号を取得する。2003年に帰国後、日本での活動を再開する。「ワイドスクランブル」「報道ステーション」(テレビ朝日)などに出演や制作協力としてかかわり、学習院大学非常勤講師、テクノスカレッジ客員講師をつとめる。そして2005年に長編ドキュメンタリー『ディア・ピョンヤン』を発表し、ベルリンを始め多くの国際映画祭で受賞するが、この作品が原因で北朝鮮政府から入国禁止令を受ける。現在、来年公開予定の新作として初めての劇映画の脚本を完成し、撮影準備を行っている。他に著作として「ディア・ピョンヤン~家族は離れたらアカンのや~」(アートン刊/2006)「北朝鮮で兄は死んだ」(聴き手 佐高信・七つ森書館/2009)がある。

Q:映像に関わるようになったきっかけは?

20代は大阪の劇団で芝居をやっていたんですけど、お客さんにアジアプレスのジャーナリストの方たちがいて、よく打ち上げの席なんかで自分の家族の話をしていたんです。それまでは、家族のことを考えるのがしんどくて、芝居というフィクションに逃げていたところもあるんですが、歳をとるにつれて根性が座るというのか、話すのが面白くなってきたんですね。彼らが「北朝鮮に行けてうらやましい」と言うから、私も酔っぱらって「日本人が作った在日のドキュメンタリーは踏み込み方が足りない」とか文句をたれていたら、「じゃあヤンさんが作れば」という話になった。ちょうど30歳になる頃で、自分でも女優の道はないなと思っていて、一生やっていける仕事は何だろうと考えていた時期。それで彼らが作った作品を見せてもらったりするうちに興味を持って、93年の山形ドキュメンタリー映画祭に行ったんです。朝から晩までドキュメンタリーを観るなんてしんどそうだなと思っていたら、これがもう面白くて面白くて。色っぽかったり笑いがあったりで、こんな表現方法があるんだ!と思って、帰って来てすぐにビデオカメラを買いました。そうしたら今度は「テレビの枠を押さえるからインタビュー集撮ってみなよ」と言われて。95年の3月にピョンヤンに行く機会があったので、そこでまず練習しようと思ったんです。両親に孫の顔を見せるためにも、かわいい甥っ子姪っ子たちの姿を撮ってみようと。


Q:作品化を意識するようになったのは?

ピョンヤンから帰ってきて『What Is ちまちょごり?』と『揺れる心』という在日コリアンのインタビュー集を作った時に、撮る側も試されるということをすごく実感しました。その後、また山形ドキュメンタリー映画祭に行ってドキュメンタリーをたくさん観たことで、北朝鮮で撮ったものを何らかのかたちで作品にしたいと思い始めたんです。またその頃、ニュース番組の仕事もちょこちょこやっていたんですが、ピョンヤンを何度も訪れた経験から北朝鮮に関する話をテレビやラジオで喋っているうちに、ジャーナリスティックな視点を持ちたいと思うようになった。ピョンヤンに関する質問をされると複雑なんですよ。「普通の人は私たちと変わらないんですよ」と言うと「北朝鮮を擁護するのか」と責められ、批判的な意見を口にすると「あんな家庭で育ったくせによく言えるな」と言われる。北朝鮮について、感情的、感傷的にならずに説明できるようになる必要があると思いました。それでアメリカに留学したんです。ジャーナリズムやドキュメンタリーをもっと勉強したかったし、アメリカに行けば別の角度から朝鮮半島のことが見えてくるんじゃないかと考えました。


Q:『愛しきソナ』を作った経緯は

兄たちの子供はずっと男の子ばかりで、初めて生まれた女の子がソナでした。そして兄が抱っこしていたり、兄のそばで写っているソナの写真を見た時に、ソナがまるで自分の分身のように思えて、特別な気持ちが芽生えてきたんです。それで95年からビデオで撮り始めて、その後撮りためた映像を前作の『ディア・ピョンヤン』のために見直して編集作業をしている時に、ソナを中心にしたもう1本が作れそうだなと思って、その時点でもう制作しようと決めていました。
『ディア・ピョンヤン』は自分の父の話なので、どちらかと言えば過去から現在の事について描いているんですが、ソナについての作品を作る事で、未来に向けての希望を描けるんじゃないかと思いました。


Q:特に気に入っているシーンを教えて下さい。

冒頭のアイスクリームを食べているソナと、最後の停電のシーンはすぐに「使おう」と決まりました。アイスクリームのシーンは、実際に私が初めてソナに会った時の映像で「本当に可愛いな」と思いながら撮っていました。停電のシーンは普通に考えればとても厳しい状況だと思いますが、そんな中でも冗談を言ってみんな笑いながらたくましく頑張っている・・・私たち家族の象徴のようなシーンだと思っています。


Q:どのような想いを込めてこの作品を作ったのでしょうか?

ビデオカメラを手にすることでその対象をしっかり見ようという意識が働いて、撮影しなければ見えてこなかったと思うようなものが沢山ありました。例えば母が仕送りの荷造りをしている場面なんかは、ソナや甥っ子たちに「こんな風に気持ちを込めて色々なものを荷造りして送っているんだよ」という事を見て欲しいと思っているし、ソナが録画を止めた後に二人でする会話は、私たちにとっては他愛のない日常会話なんですが、ソナの立場で考えればあの程度の会話でも気にして自己規制しなければならない、そんな環境の中で生活しているという事を観た人にも感じ取って欲しいです。そして今の状況ではソナたちが完成した作品を観る事は出来ないと思いますが、いつかそんな場面を「こんな事もあったね」と笑って話しながら一緒に観られる日が来たらいいな、と思っていますし、この作品がそのためのきっかけになれたら嬉しいです。またこの作品を観たお客さんに、自分の家族の事を少しでも思い出していただけたら、とも願っています。