愛しきソナ

「知られざる国」で生きる人たち   佐高 信(評論家)

北朝鮮は、「近くて遠い国」とか、「恐い国」と言われるが、そうではなくて、いまだに「知られざる国」である。

もちろん、“鎖国”状態にあるために、さまざまな情報がオープンにされていないこともあるが、日本を含めた世界の視線が主に金正日等の一挙手一投足に注がれ、その中で国民が暮らしているという当たり前のことが忘れられがちになっていることにも原因がある。

言うまでもなく、彼の国には支配者たちだけが生活しているのではない。そのことを改めて鮮烈に知らせたのが梁英姫の前作「ディア・ピョンヤン」だった。それを世に問うたことによって梁は北朝鮮への再入国を拒否されることになったが、人びとの日常を描かれたことが彼らにとっては恐怖だった。

ハレとケとに分ければ、ハレを批判されるのではなく、ただ、ケをありのままに写されたことがショックだったのである。

梁が六歳の時、三人の兄が北朝鮮に渡った。日本では将来に希望を托せなかったからだが、しかし、理想郷といわれた彼の国の実体は、まるでそれとは違ったものだった。

その二番目の兄の娘、ソナに梁は自らの姿を重ね合わせる。愛くるしい彼女は、五歳で実母に病死されたからである。

生きているけれども容易には兄たちと会えなくなった梁の喪失感と、母を亡くしたソナの喪失感。それを梁は、むしろ、淡々と描く。それによって、より深く、より強く、見る者に喪失感が伝わってくる。

外貨レストランでアイスクリームを食べながら、叔母である梁の質問に答えるソナ。そして、自分の身体より重いボールをボーリング場で転がそうとするソナ。それらはまだ幼い子どもであるが故に、一つひとつのしぐさが笑いを誘うのだが、学校に入って校門から遠ざかっていく姿には、この国で生きていくソナの意識せざる決意がうかがわれる。

私たちは、たとえば北朝鮮にボーリング場があることにすら驚く。ニュースになるのは脱北とかの非日常だが、多くの国民には、しょっちゅう停電に見舞われる日常があるのである。

恐怖を抱く前に、まず、北朝鮮の実情を知ることだろう。そのことを梁は強く望み、それを願って、このドキュメンタリーを製作したのだということがよくわかる。

北朝鮮が攻めてきたらどうするんだ」と短絡的な問いかけをする人がいるが、基本的に戦争は石油がなければできない。エネルギー源としての石油を中国に頼っている北朝鮮は、だから、中国の了解なくして戦争はできないのだが、石油がないのに戦争をした国が約一国ある。日本である。「石油の一滴は血の一滴」とか言って狂気の戦争をした日本は、それ故に、冷静に北朝鮮を見ることができない。あらゆる意味で日本人は彼の国を偏見なく見ることができないのだが、梁はそうした固定観念へのチャレンジという意思を底に秘めて、決して重苦しくではなく、北朝鮮に生きる人びとの生活を描いている。選択肢のない日常で人はどう生きるか?フットワーク軽く描かれているこのドキュメンタリーによって、私たちはそもそも選択とは何かという問いの前にも立たされる。そうした意味で、北朝鮮の日常生活を描いたこのドキュメンタリーは、北朝鮮以外の人々の日常をも考えさせるドキュメンタリーとなっているのである。