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ピンク映画

1962年の『肉体の市場』が第1号とされる、大手映画会社以外の独立系製作会社によって作られた日本のポルノ映画。ストーリーのあるドラマで、SEXシーンでは女優も男優も前張りを使用して疑似本番を演じた。後に東映や日活などの大手映画会社が参入する直前には、全体で年間40億円の興行収入を上げていたと言われている。新東宝映画、オーピー映画(旧大蔵映画)、新日本映像(エクセス・フィルム)、国映などが代表的な会社。

日活ロマンポルノ

日活により1971年から16年間、1000タイトル以上製作されたポルノ映画。若手映画監督の研鑽の場としても機能し、日本の映画史に残る名作が数多く残された。神代辰巳、藤田敏八、根岸吉太郎などの監督や、荒井晴彦、田中陽造などの脚本家、その他、後に日本映画界を支える多くの才能を輩出した。代々木が設立に参加したプリマ企画は、日活からの下請け作品を月3本程度制作するために起ち上げられた会社。

日活ロマンポルノ裁判

1972年に代々木が関わった『女高生芸者』を含む日活4作品が摘発され、翌年、刑法175条[わいせつ物頒布等]違反で日活社員5名と渡辺輝男(=代々木忠、プリマ企画)、幇助罪として映倫の審査員3名の計9名が起訴される。後に表現の自由をめぐって文化闘争の様相を呈し、大島渚、今村昌平、新藤兼人などの監督や評論家も証言台に立ち、世間が注目する中で大論争が巻き起こった。80年に全員の無罪が確定する。

ビ二本(ビニール本)

80年代前半に独自の流通によって販売され、一世を風靡した性器への修正が薄いポルノ写真集。薄いビニール袋に入れられ、まだ解禁前だったヘアが見えるという事で爆発的な人気を得るが、度重なる警察の摘発により下火となる。その後、ビニ本の制作者たちは次々とビデオ産業に参入してゆく。

代々木忠を囲む女性たちの集い

1994年発足。会員約60名。当時、他のAV作品のレイプシーンが問題となり、AV界の重鎮である代々木監督に女優の人権についての意見聴取をしに女性達が集まる。その後、代々木作品を鑑賞した女性たちと代々木が女性の性について語り合う会に発展し、約二年間定期的に会合が持たれた。参加者は斉藤綾子(作家)、三善理沙子(作家)、藤本由香里(評論家)など。

ビデ倫(日本ビデオ倫理協会)

70年代初頭にポルノ・ビデオの摘発が続いた事に応じて、1972年に前身となる自主審査を行う団体が発足。77年に名称を「日本ビデオ倫理協会」に変更し体制も整備する。ビデオレンタル・システムが確立すると、レンタル業界は相次ぐ摘発を避けるためにビデ倫加盟メーカー以外の作品を扱わなくなり、加盟が急増する。90年代中頃よりインディーズ・メーカーのセルAVが台頭し、ソフト・オン・デマンドを中心とする別審査団体、メディア倫理協会(05年にコンテンツ・ソフト協同組合に移行)ほかが設立される。00年代中頃にはビデ倫の厳しい審査基準による作品に対する消費者の不満もあり、セルAVの優勢が顕著になり、レンタル系メーカーの基準改正の声が高まる。さらに脱退するメーカーも出始めた事を受け06年遂に審査基準を改正するが、これが原因で07年にビデ倫は摘発を受け、翌08年に解散する。