僕が初めてパンダ基地に行ったのはテレビ番組の技術スタッフとして訪れた2008年のこと。その頃ウーイーは既に産まれており、このような映画が出来ることなど誰も考えてはいませんでした。実はそれまで実物のパンダも見たことがなく、ウーイーのことも知りませんでした。
初めて本物のパンダと会ったのは、撮影が始まる前、独りでパンダ基地内をうろうろした時でした。夏。四川大地震の直後。熱さの所為もあり、お客さんは大勢いてもほとんどパンダを見かけない。うっそうと茂る緑。と、緑の中、遠くに寝ている白黒模様を発見。あれだけ大きな生き物が、ものすごく静かに寝ている姿。「不思議な生き物だな」そう思いました。その時の環境の所為もあったでしょう。静と動。喧噪の客と緑の中の白黒。我々人間世界とは違った時間軸で生きているかのような、パンダの周囲だけ大昔からそのままであるかのような、そんな感覚でした。今はある程度の言葉に置き換える事は出来ますが、同じ空間にいながら歴史上の人物でも見ているような、その不思議な感覚は僕のパンダに対する興味の始まりでした。
撮影が始まってからは、パンダと僕とはマイクの音を通しての向かい合いでした。恐らくあの音を四六時中聞いていた人はあまりいないでしょう。マイクを通すパンダの音はまさに獣そのものでした。荒々しい息づかい、強靭なあごが噛み砕く竹の繊維のきしみ、そして特徴的な鳴き声。見た目の愛らしさとは違い、僕にとって彼等は獣でした。
“人間世界の時間で生きていない不思議な獣”。僕がパンダへの切り口をこのように評したのを聞いて、プロデューサーの張さんは「面白い話があるんだけど」と、“ウーイー”の話を始めました。パンダ基地で産まれた超未熟児パンダ、それを育てた飼育員達の苦労、そしてウーイーの家族達…。「これは面白いけどとても根気が必要な企画で、どういう形で作品に纏められるか今は分からない」と張さんは話しました。「大変だけどそんなに面白そうならやらない手は無い!」と思い、まずはパンダ基地が撮影した資料映像に目を通してみようと決めました。こうしてウーイーを通してパンダの人生を考える長い旅が始まりました。
その後何回かパンダ基地に撮影に行きました。ある時は別のテレビ番組、ある時はウーイーの追撮と、一年に2〜3回のペースで行っていたでしょうか。“不思議な獣”は、僕以外のスタッフ達の心も鷲掴みにしていました。日本から撮影に行った多くのスタッフは僕同様、パンダと初めて接する人たち。そしてそのほとんどが、撮影が終える頃には大のパンダ・ファンになっている。あるカメラマンさんなどは「パンダの可愛さはカメラで写せない」とも言っていました。この不思議さは何だろう?写せない“獣”を、どうしたら写せるのだろうか?そんな事を考えていました。それだけ本物のパンダは、会わなければ分からない不思議な魅力を持っています。
2009年のある時、3週間程時間が空いてその機会に集中的に資料を編纂しました。資料と撮影した映像とを映っているパンダごとに仕分し、時間軸にそって並べていきました。各パンダの成長の様子が分かるようになりました。そう整理する事で、同じように見えるパンダ達には個々性格があることがハッキリと分かりました。特に歩き始めてから幼稚園卒業時期くらいまでは顕著に性格が行動に現れます。パンダは寝ているか食べているかしかないという印象の人も多いでしょう。あれは大人パンダです。パンダの最終形態なのですよ。ともかく生き生きと動いているパンダをふんだんに見られたことで、ある程度性格が掴めるようになりました。この頃、素材量は約4年間分。100時間くらいありました。そしてこの頃、リリ(莉莉)の子供が産まれることになります。
同時にパンダについての文字資料を読み漁るようになりました。パンダの性質や生き方を知れば知る程、その“写せない不思議な獣”は“不器用なやつ”という印象に変わっていきました。肉食動物なのに、竹しか食べられないって…。しかもあまり消化出来ないから栄養を充分に摂る為に食べ続けなければいけないって…。そんな不器用なやつに、妙な愛情が湧いてきました。
パンダそのものにここまで感情移入してしまうと、もうウーイーだけの話では終われない。超未熟児がいかに生きられたかというHow Toだけではなく、パンダそのものを感じられるような、実際のパンダに対面した時の不思議さが感じられるような、不器用な生き方に愛情が持てるような、そんな作品にするべきだ。そうすれば“写せない”と思っていたモノが写るかもしれない。それこそ“生きる”ことそのものを描けるかもしれない。パンダを描きながら人間にも通ずる、普遍的なテーマが醸せるかもしれない、そんな構想を考え始めました。
そして2011年。この作品が一気に仕上げに向かう急展開がありました。テレビ番組でウーイーの資料映像が使われ、その反響の大きさから一気に映画化の話がまとまったのです。そこから映像の編纂が本格的に始まりました。パンダごとに分けられたタイムラインは6年分の素材量になり、その時間は200時間を悠に超えていました。
ある時、改めて素材を見直していると笑っているパンダを発見しました。リリ(莉莉)との出会いと言ってもいいでしょう。リリが子供を抱いて笑っているカットでした。その笑顔があまりにも印象的で、そこからリリという人生の映像を片っ端から集めました。パンダ基地に何度も問い合わせをし、リリがどういう経緯でその子供を抱いているかを知り「この人生は誰かが伝えなければ」という、半ば使命感が与えられました。“生きる”と言う普遍的なテーマ以外に、もう一つ“孤独と愛情”がはっきりと出て来ました。パンダの不器用な生き方の孤独さが、実は愛情に裏打ちされた物であると確信を持って言えるように思い至りました。ウーイーも、もう大人と呼んでもいい年齢。全てがいい熟成期間を経て、一つの流れへとまとまり始めていました。
最初の構成案は一気に書き上げました。ウーイーの物語は、ただ可愛いだけのパンダ映画にはしたくない。人間の都合をパンダの口を借りて言わせるような、そんな作りにはしたくない。ただ、パンダの人格に迫りたかった。パンダそのものに触れ合った時の感覚を、そのまま感じられるような映画にしたかった。パンダの不器用さそのものを丸ごと受け渡すような映画。孤独を選ぶという不器用さを。
具体的な編集作業が進んでいくと、写ったものそれだけを羅列すればいいのではないと言う事にすぐ気がつきました。何年も素材を見ていた人間が分かる個々の性格は、一見地味で分かりづらい映像が多かったのです。老若男女、なるべく大勢の人にパンダの世界を楽しんで頂きたいため、ある程度の再構成が必要になりました。1つのシーンを構成するのに、三つ以上の違うシーンをつなぎ合わせたりもしています。
仕上げ作業の最後には、僕が4年間録り続けたリアルなパンダの声をふんだんに足しました。パンダ基地で録り続けた環境音などもふんだんに使用しました。カメラごとの違いは、実は音にも現れてしまう。その違和感を払拭する為、音はほぼ全て作り直しました。内容的にも技術的にも勝負する方向性が決まった。これはまさに、僕が今までやって来た仕事の集大成でした。完成は本当にあっという間の出来事でした。なるべく手間を惜しまず手作りの感覚を大事に、仕上げていきました。
パンダそのものを感じてもらえるかどうかは分からない。しかし僕にとってのパンダと出会った時の不思議な感覚は、その不器用さの中で見え隠れしていると思います。そしてあらゆる年代、男女問わず、見る人それぞれの人生の中で、それぞれがパンダを身近に感じられるような作りになっていると自負しています。全ての人にとって、パンダに出会うことは難しいかも知れない。しかしこの映画との出会いで、パンダを通して感じられる生命の不思議、そして人間にも通ずるその孤独さ、そして孤独を支える深い愛情の存在、などを知るキッカケになってもらえればこんな嬉しい事は無い。そしてその生命に感動を覚えたならば、そう感じる自分自身も生命なのだ、自分自身とは一体何なのだろうか、そう感じてもらえれば、これ以上言う事は無い。
1976年4月2日デンマーク生まれ福岡育ち。1998年に映画の世界を志して日本映画学校に入学し録音を専攻。卒業後は録音技師、編集、制作、監督として多くの制作現場で腕を磨き、特に録音技師としてアート映画、商業映画、ドキュメンタリー、CM、テレビドラマとあらゆる現場を経験する。パンダ関連のテレビ番組に録音技師として5年間関わり、本作で使用されているパンダの声はその貴重で膨大なライブラリーからも使用されている。