親しい友人が、とある劇場で数日前に観た芝居について我々に話してくれました。芝居を観て涙を流したのは何年かぶりだったそうです。そこで我々はその劇場を訪れてみました。それはローマ郊外のレビッビア刑務所の中にありました。いくつものゲートや扉を通り抜け、たどり着いた先にあった舞台では20人ほどの受刑者たちが(なかには終身刑に服すものも)、ダンテの「神曲」を詠んでいました。彼らは「地獄篇」から選ばれたいくつかの歌を通して、パオロとフランチェスカ、ウゴリーノ伯爵、そしてユリシーズの痛みと苦悩を追体験していました。彼ら自身の監獄という地獄のなかで・・・。それぞれの出身地の方言で語り、時に、歌にこめられた詩的な物語と彼ら自身の人生の類似点を浮かび上がらせながら。
我々は友人の言葉と涙を思い出し、文化から遠く離れた世界、刑務所で暮らすアウトキャストたちから、どのようにして素晴らしい芝居は生みだされるのか、映画撮影を通して知りたいという衝動に駆られました。
そこで、舞台監督として受刑者たちを演出するファビオ・カヴァッリにシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」を提案したのです受刑者たちの協力のもと、彼らの監房や刑務所の構内、そして最終的には舞台で撮影を行いました。
受刑者としての彼らの人生の暗闇を“友情と裏切り”、“殺しと難しい選択による苦悩”、“権威と真実”といったシェイクスピアによって喚起される感情の詩的な力と対比させようと試みました。このような芝居に深く身を沈めるということは、自身をみつめるということでもあります。舞台を降り、再び監房へと戻っていかなければならない彼らにとっては、なおさらのことです。
兄ヴィットリオは1929年9月20日、弟パオロは1931年11月8日、共にイタリア、トスカーナ生まれ。44年にドイツ軍侵略により自宅が壊れたため一家でピサに移住する。
ピサの大学では、弁護士である父は息子たちに法律家になるよう望むが、兄弟はシネクラブに通うなど映画に耽溺する。映画を通じて、レジスタンスの闘士で共産党員のヴァレンティノ・オルシーニに出会い、共に映画制作を夢見るようになる。
54年に、初めての兄弟監督作品、短編ドキュメンタリーの“San Miniato, luglio '44”を発表。大御所の脚本家チェーザレ・ザヴァッティーニ監修、オルシーニ協力により創り上げた同作はピサ・ドキュメンタリー映画祭で高い評価を得る。
55年には大学を中退、兄弟はオルシーニと共にローマに移り、ドキュメンタリー映画の制作を開始する。ドキュメンタリー監督のヨリス・イヴェンスと出会い、60年に兄弟とイヴェンス共同監督で『イタリアは貧しい国ではない』を製作。同作では、小説家のアルベルト・モラヴィアが協力、ティント・ブラスが助監督を務めている。
62年に、兄弟とオルシーニ共同監督作“Un uomo da bruciare(火刑台の男)”で初の長編劇映画製作。ジャン・マリア・ヴォロンテが主演し、ヴェネチア映画祭でイタリア映画批評家賞を受賞した。
67年に、初の兄弟監督作『過激派たち』を製作、初のイタリア映画批評家連盟シルバーリボン賞監督賞候補となる。
その後、77年に『父/パードレ・パドローネ』を発表。同作で、カンヌ国際映画祭パルムドールと国際映画批評家連盟賞をW受賞、母国でダヴィッド・ディ・ドナテッロ(イタリア・アカデミー)賞特別賞、シルバーリボン賞最優秀監督賞を受賞して、ヨーロッパを代表する巨匠監督の地位を確立した。
更に、82年にカンヌ国際映画祭に出品した『サン・ロレンツォの夜』で審査員グランプリとエキュメニカル審査員賞を受賞、アメリカの全米映画批評家協会の作品賞と監督賞もW受賞で世界に冠たる巨匠としてリスペクトされる存在となった。
以降、衰えることなく力量高い作品を送り出してきたタヴィアーニ兄弟が、5年ぶりに新作を発表、ベルリン国際映画祭コンペティション公式出品したのが本作『塀の中のジュリアス・シーザー』である。見事に金熊賞グランプリとエキュメニカル審査員賞をW受賞、イタリア国内でもドナテッロ賞で作品、監督をはじめとした主要5部門受賞、シルバーリボン賞でも特別賞を獲得した。
斬新で意欲的な作風は、80歳を超えた巨匠の新たなる挑戦にも伺え、その製作意欲に畏敬の念さえ覚える。
また、ヴェネチア国際映画祭から86年にキャリア金獅子賞を、91年にピエトロ・ビアンキ賞を授与されており、ドナテッロ賞では89年にルキノ・ヴィスコンティ賞を受賞しているほか、世界の映画祭、映画賞でその燦々たるキャリアに対して賞賛されている。
1954 | San Miniato, luglio '44 短編ドキュメンタリー |
1960 | イタリアは貧しい国ではない L'Italia non è un paese povero ドキュメンタリー ヨリス・イヴェンスとの共同監督 劇場未公開/映画祭での上映 |
1962 | Un uomo da bruciare(火刑台の男) ヴァレンティノ・オルシーニとの共同監督 劇場未公開 ヴェネチア国際映画祭 イタリア映画批評家賞 |
1963 | ああ離婚 I fuorilegge del matrimonio ヴァレンティノ・オルシーニとの共同監督 劇場未公開/TV放映 |
1967 | 過激派たち I sovversivi 劇場未公開/映画祭での上映 劇場未公開/映画祭での上映 イタリア映画批評家連盟シルバーリボン賞 監督/オリジナル・ストーリー賞候補 |
1969 | 蠍座の星の下で Sotto il segno dello scorpione 劇場未公開/TV放映 |
1972 | サン・ミケーレのおんどりさん San Michele aveva un gallo 劇場未公開/映画祭での上映 ベルリン国際映画祭フォーラム部門インターフィルムアワード推薦 |
1974 | アロンサンファン/気高い兄弟 Allonsanfàn 1991年日本劇場公開(配給:シネマテン=デラ) |
1977 | 父/パードレ・パドローネ Padre padrone 1979年テレビ放映(タイトル:『父』 NHK教育) 1982年日本劇場公開(配給:フランス映画社) カンヌ国際映画祭 パルムドール、国際映画批評家連盟賞W受賞 ベルリン国際映画祭 インターフィルム・グランプリ ダヴィッド・ディ・ドナテッロ(イタリア・アカデミー)賞 特別賞 シルバーリボン賞 最優秀監督賞 |
1979 | 草原 Il prato 劇場未公開/映画祭での上映 |
1982 | サン・ロレンツォの夜 La notte di San Lorenzo 1983年日本劇場公開(配給:フランス映画社) カンヌ国際映画祭 審査員グランプリ、エキュメニカル審査員賞W受賞 ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 監督賞、作品賞 シルバーリボン賞 監督賞、脚本賞 アメリカ 全米映画批評家協会賞 監督賞、作品賞 アメリカ ボストン映画批評家協会賞 監督賞、作品賞 フランス 映画批評家連盟賞外国作品賞 |
1984 | カオス・シチリア物語 Kaos 1985年日本劇場公開(配給:フランス映画社) ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 脚本賞 シルバーリボン賞 脚本賞 |
1987 | グッドモーニング・バビロン! Good Morning, Babylon 1987年日本劇場公開(配給:フランス映画社) キネマ旬報ベスト・テン 外国語映画賞 報知映画賞 外国語映画賞 |
1990 | 太陽は夜も輝く Il sole anche di note 1990年日本劇場公開(配給:ヘラルド・エース/日本ヘラルド映画) シルバーリボン賞 監督賞候補 |
1993 | フィオリーレ/花月の伝説 Fiorile 1994年日本劇場公開(配給:ギャガ・コミュニケーションズ) カンヌ国際映画祭コンペティション公式出品 |
1996 | Le affinita elettive(選挙に関する類似性) 日本未公開 |
1998 | 笑う男 Tu ridi 劇場未公開/映画祭での上映 マールデルプラタ国際映画祭 監督賞 |
2001 | 復活 Resurrezione 2003年日本劇場公開(配給:アルシネテラン) モスクワ国際映画祭 グランプリ |
2004 | Luisa Sanfelice 日本未公開 |
2007 | ひばり農園 La masseria delle allodole 劇場未公開/映画祭での上映 |
2012 | 塀の中のジュリアス・シーザー Cesare deve morire 本作 |
『父 パードレ・パドローネ』が、サルデーニャ生まれで羊飼いの言語学者ガヴィーノ・レッダと出会ったことによってすべてが始まったのと同様に、『塀の中のジュリアス・シーザー』もすべて偶然に起きたことです。
親しい友人との電話での会話がすべての始まりでした。アメリカ映画を通してしか知りえなかった世界に我々が足を踏み入れるきっかけになったのです。無論、ローマ郊外にあるレビッビア刑務所はそれまでスクリーンでみたことがあるどの刑務所とも全く違っていました。しかし、初めて訪問した際、そこには我々が想像していた鉄格子内の生活の陰鬱な雰囲気はなく、文化的かつ詩的な活動によるエネルギーと熱に満ち溢れていました。服役囚たちはダンテの「神曲」の一篇「地獄篇」の一節を詠んでいたのです。
後に我々は、彼らがカモッラ、ンドランゲタなどのマファイアに属していた重犯罪者たちで、重警備棟に収容され、ほとんどが終身刑に服しているということを知りました。
彼らの本能的な芝居は、真実を伝えたいという大きな衝動に駆りたてられたもので、インターンの演出家ファビオ・カヴァッリによる揺るぎなく継続的な指揮によって船頭がきられていました。
レビッビア刑務所に初訪問した直後に、彼らについて、また彼らの状況についてもっと知りたいと思った我々は、再度訪問し、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」の映画化の話を持ちかけたのです。ファビオと服役囚たちは、瞬時に「今すぐ始めよう!」と答えました。
映画に登場する役者は重警備棟に収監されている服役囚たちです。正確に言うと、ブルータス役を演じたサルヴァトーレ・ザザ・ストリアーノはすでにレビッビア刑務所での刑期を終えています。彼は14年8カ月の刑期を言い渡され、6年10カ月服役し、恩赦を受けて現在は自由の身です。ストラトーネも同様です。唯一の「部外者」は演技指導講師のマウリーリオ・ジャフレーダでした。
オーディションはここ数年、シンプルで効果的な方法を採用しています。役者に、まずは愛する人に別れを告げるように、続いて税関で尋問を受けているかのように、二通りの言い方で名前や出身地を言って芝居してもらいます。一つは悲しみ、もう一つは怒りを表現してもらうのです。今回、主な役者は事前にファビオが選んだ服役囚たちの写真を見せてもらいながらキャスティングし、比較的簡単に決まりました。その他の役者たちのオーディションでは、プライバシーの理由で希望する者は仮名を使っても問題ないと説明しました。しかし驚いたことに、自分の本名、両親の名前、出身地を明かすことに誰一人として躊躇したものはいませんでした。しばらくして、彼らにとってこの映画は、外で暮らす人々に自分たちは刑務所の静寂のなかで日々暮しているということを思い出してもらう術になりえるということが分かりました。
カメラを通して彼ら一人一人を観ることで、我々は初めて彼らについて、また彼らが抱える真の痛みや怒りを知ることができました。
脚本に沿って進めました。我々の他の作品と同様、今回も脚本を書きました。そして、これも毎度のことですが、セットでカメラがまわって役者が演じ始め、さらにロケーションや照明そして暗闇が作用して、脚本はまったく違うものに姿を変えていきます。
シェイクスピアに当然の敬意を払いながら(彼は我々にとって常に父親であり兄弟であり続ける存在です。そして我々が歳をとるにしたがい息子にもなってきました)、彼の「ジュリアス・シーザー」を再編成、再構築しました。もちろんオリジナルの悲劇性と物語は守りながらも、従来の演劇のテンポから離れることによってシンプルにしました。我々が映画と呼ぶ、映画以前のすべての芸術の退化した息子である視聴覚の有機体を構築しようとしました。シェイクスピアが愛したであろう退化した息子です!
すべてのセリフを俳優たち各々の方言やスラングに書き換える際、ファビオが協力してくれました。彼らは我々がやろうとしていることを理解してくれ、見事な芝居を披露してくれました。彼らのお陰で、また、彼らが表現した様々な真実、また予想外の演技によって、脚本は進化していきました。分かりやすいようにひとつの例をあげると、預言者であるナポリ人の“パッツァリエッロ(訳注:ナポリの方言で陽気で楽しい人のような意)”が手を鼻にあて、ふざけているような不穏な仕草で観客に静かにするように呼びかけますが、あれは脚本にはありませんでした。しかし、彼は我々にシェイクスピア作品に登場する数々のクレイジーな登場人物たちを思い出させてくれたのです。例えば、悲劇から逃げ出したヨリックという登場人物です。あの芝居は、一人の天才によるトリビュートでもあり、我々みんなへの希望でもあるのです。
他は考えも及びませんでした。必然による選択です。まず考えたことは、我々が一緒に取り組もうとしている人たちは遠かれ近かれそれぞれの過去を抱えています。悪事、過ち、犯罪、人間関係の破綻などによって形成された過去です。故に、彼らに立ち向かわせるための、逆方向でありながら、彼らの過去と同じぐらい力強い物語が必要だったのです。そして、このイタリア版映画化であるシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」で友情、裏切り、権力、自由、疑念などといった素晴らしきかつ嘆かわしき人間同士の関係をシルバースクリーンに映し出したいと思いました。殺人についてもです。服役囚/役者たちのうち数人は、かつて「高潔な人間」(訳注:シチリアマフィアの呼称の一つ)でした。アントニーは彼の演説で「高潔な人間」について言及します。シーザー暗殺のシーンを撮影した当日、我々は短剣を携えた役者たちに、彼らの内に潜む殺意の衝動を表出させて欲しいと指示しました。しかしその瞬間、自分たちが口にしたことの意味に気が付き、すぐに撤回したいと思いました。しかし、それは必要ありませんでした。現実に向き合わなければならないことは、彼ら自身が一番に分かっているのです。
我々は彼らの長き日々と夜を追うことにしました。5人用の監房、廊下、唯一屋外で過ごせる中庭で過ごす時間、また親類との面会を待つ間の時間などです。
彼との共同作業と彼の熱意が分かるように、この映画について初めて話した際に彼が言ったことをお教えしましょう。彼は「フィリッピの戦いのシーンは刑務所の裏の原っぱで撮影するべきだ。服役囚たち全員が参加できるように所長に掛け合ってみよう」と提案してきたのです。しかし、知的な感性とショービジネスに関する深い知識を持つ彼は、これが我々の意向に反するということも、すぐさま理解してくれましたが。
どのようにプロットを組み立てたいか彼に説明し、脚本作りから協力してもらいました。
刑務所内の誰も知らないような秘密の場所を探す手助けをしてくれ、適役が誰かを判断するための服役囚たちとのミーティングを手配してくれました。彼は、最終キャストを決定する前に、いくつかのシーンを一部の服役囚で実際に試しました。彼のアシスタントの協力のもと、ラストシーンを特に集中的に試しました。
後に、兵士の盾のような、色付きのガラス繊維でできた二つの円柱が描かれたセットデザインのスケッチを提案してくれました。そして最終的には、彼自身が演出家という役目を降り、演出家という重要な役を演じる役者へと身を転じたのです。彼の芝居は素晴らしかった…今まで演技指導してきた役者たちが彼の芝居を見ていますからね! 彼は役者たちに向かって言いました。「今日まで私はあなたたちの舞台演出家であった。しかし、映画となると使用する言語がまったく異なってくる。よって今回は彼らが我々を演出する」と。
撮影が終了し、疲労困憊して刑務所を後にしたとき、我々は、もしやファビオは「自由な世界」の舞台で仕事をすることを密かに夢見ているのではないかと思いました。しかしその後、「ジュリアス・シーザー」のオリジナル版を服役囚たちと上演するために、彼はレビッビア刑務所に戻りました。彼は挑戦的な笑みを浮かべて我々に言いました。最も美しいシーンはカルパーニアと対峙するブルータスのシーンだと。それは、我々の映画が男性キャストのみだったため、省いたシーンです。
我々は撮影の数カ月前からレビッビア刑務所に通いました。重警備棟の異なる監房の前を通り過ぎましたが、様々な年代の服役囚たちがベッドに静かに横たわっている姿が半分閉じられた扉から見えました。彼らの内一人があるとき言いました。「私たちは天井を眺める人々と呼ばれるべきだ。日がなベッドに横たわり、天井を眺め続けているのだから」と。その言葉を聞いてからというもの、廊下を自由に行き来しているときに、時折罪悪感を抱くことがありました。しかしまたある朝は、より大きな監房で見た光景に、我々は驚きのあまり笑ってしまいました。6、7人の服役囚たちがテーブルを囲み、テーブルの中心に置かれた文書を読んでいました。後に、それが我々の脚本で、彼等は自分たちのセリフを同郷出身の他の服役囚たちの助けを借りながら、ナポリ、シチリア、プッリャなど各々の方言に言いかえていたのだということを知りました。すべての取り組みは、それまでと同様にファビオとキャシアス役のコジモ・レーガの監督のもと進められていました。このエピソードだけでも、この映画の意義が分かるのではないでしょうか。彼らのスクリーンテストを観ているとき、プロスペローとアリエルがナポリの方言で喧嘩をしたり、ロミオとポローニアスが、シチリアやプッリャの方言で囁いたり、怒鳴ったり、ののしったりするのを聞くことは、非常に嬉しい驚きでした。
方言によるセリフの訛りや誤りは、決して悲劇性を軽くすることはなく、むしろ反対にそれらのセリフから新しい真実を浮かび上がらせるということに気が付きました。また、我々はそれらのセリフをより注意深く聞くようになります。
役者と登場人物は言語を共有することで、より深い繋がりを導き出していきました。また、そのことによって、シェイクスピアの人気の理由のひとつでもあるそのドラマ性を強調することになったと思います。ですから、方言を使う判断をしたのは我々ではなく、役者たちが脚本を彼らなりに解釈した結果なのです。
映画は全編レビッビア刑務所内で撮影されました。我々は刑務所で4週間過ごしました。
朝、刑務所に入り、夜、疲労しつつもとても幸せな満足感で刑務所をあとにするという日々が続きました。そしてある日、気が付いたのです。「今、我々は初期作品と同じがむしゃらな無謀さで撮影している」ということに。
撮影に関して言うと、どこでも自由に撮影することを許されていました。監房、階段、個室、中庭、独房、図書室などです。唯一の例外は、完全立ち入り禁止である独房に監禁された服役囚たちの隔離房のみでした。そこに収容されている服役囚の顔は誰も見ることができません。看守が、深い静寂に包まれた彼らの独房の窓を外から見せてくれました。
別棟の服役囚たちが中庭やシャワー室に向かうために廊下を渡る際、また役者が親類と面会している時のみ撮影を中断しました。面会から戻ってくると彼等は、感動していたり、動揺していたり、塞ぎこんでいたり、不機嫌だったりしました。そんなとき、再び芝居に戻っても彼らの視線は宙を泳ぎ、激しくも優しい自発的な演技が失われていました。
映画のセットとは、友情や共犯意識が育くまれる場所でありこの映画も例外ではありませんでした。看守の一人が我々に言いました。「彼らに近すぎないように。私は彼らと素晴らしい関係を築いているし、時に彼らの慈悲心や、友情すら感じることがある…しかし、彼らと距離を置くように自らを制御している」。それは、彼らによって苦しめられている人々、彼ら以上に苦しんでいる人々、つまり彼らが犯した罪による被害者やその家族たちのことを考えなければならないからです。
それでもなお、映画が完成して刑務所と役者たちのもとを去るときはとても悲しいお別れになりました。自分の監房へ戻る際、キャシアス役を演じたコジモ・レーガは、両手をあげて叫びました。「パオロ、ヴィットリオ。明日からは何事も同じではないでしょう!」
なぜなら、色彩は現実的で、モノクロは非現実的だからです。これは独善的な意見に聞こえるかもしれませんが、この映画のなかでは真実です。刑務所に入ってみると、テレビ的な自然主義に陥るリスクを感じたので、それを避けるためにモノクロを採用しました。というのも、シーザーが古代ローマを背景にしてではなく、服役囚たちが過ごす小さく区切られたスペースで殺された、レビッビア刑務所という荒唐無稽な場所を撮影するには、モノクロの方がより創作の自由度が高いと感じたのです。ブルータスが苦しみと情熱をこめて「シーザー死すべし」という独白を繰り返す監房を、より自由に撮影できると思ったのです。強く暴力的なモノクロ映像は、最後の舞台シーンの色彩と服役囚たちの歓喜をより強調し引き立たせる効果もあります。また、物語的な理由もありました。時間の経過を分かりやすく、直接的に表現したかったのです。これが、決して新しい手法ではないことは十分認識しています。しかし、時に我々は踏みならされた道を歩きたくなるのです。
いつもと同様に今回も未完成でしたが、まずは脚本を作曲家たちに送りました。映画の撮影中にレビッビアを訪れたことが彼らにとって最も印象的だったのではないでしょうか。撮影は順調に進んでいて、我々はエネルギーがみなぎり、非常に集中していました。しかし、それにも関わらず作曲家たちは、服役囚たちの顔や目のなかに過去の暗い影を見出すことができました。
そしてその日に彼らはある決断をします。音楽は全編を通して僅かであるべきだが、非常に力強いものでなければならない。ごく少ない数の楽器:甘い物悲しい音色のサクソフォン、かたく、生々しく、荒削りな音色、そして最後はオーケストラに電子楽器とシンセサイザー。
ジュリアーノ・タヴィアーニの参加のいきさつですが、彼はかつて我々にこう言ったことがあります。「私はあなたたちの息子と甥であるため、一緒に仕事をすることは一生ない」と。その宣言から20年の年月がたち、20年の間にジュリアーノは、26もの映画音楽を担当してきました。新しい世代の素晴らしい監督たちとも仕事をしました。それまで、(エンニオ・)モリコーネと(ニコラ・)ピオヴァーニという素晴らしい音楽家たちと仕事をしてきた我々ですが、彼に一緒に仕事をしないかともちかけてみました。時を同じくして、ジュリアーノはある特別な人物に特別な場所で出会います。その人物とは若くして非常に才能あふれるピアニスト、カルメロ・トラヴィアで、エオーリア諸島で出会ったジュリアーノは、彼との豊饒なコラボレーションを始めることになります。そして我々の映画のための音楽を共同制作することになったのです。